2017/6 まことの命の水

協力司祭:パウロ小林 敬三神父

 先週の土・日、わたしは四旬節の黙想会指導のため、カトリック町田教会にお邪魔してまいりました。300人位の信者の方々がお話を聴いて下さり、わたしにとってとても充実した、そして嬉しい一日でありました。

黙想会の感動と喜びの余韻に浸りながら、夜この教会に戻ってまいりました。テレビに向かってリモコンボタンを押すと画面が現われ、この世の騒がしい現実を目の当たりにしました。WBCの野球放送、日本とオランダ戦の国際試合は延長戦に入り、劇的な一打で日本が勝ちました。大観衆の大絶叫、狂喜乱舞。それをしばらく見ていて、わたしは思わず一つの句を作りました。「たかが野球、何でこんなに大騒ぎ」と。わたしの心の喜びはこんなところにはない、という思いでいっぱいだったからです。テレビ画面を見て何故むなしさを感じたのでしょう。そうです、今読み上げたみ言葉がまさにそのことを言っているのです。ヨハネ4章のサマリアの女の話です。

ある日、サマリアの村をイエス様は歩いておられました。そして喉が渇き、「ヤコブの井戸」という有名な昔からの井戸で、イエス様は足を止められました。そこに、たまたま一人の女が水を汲みに来たのです。イエス様は、おもむろにその女に言います。「水を飲ませて下さい」。この言葉は大事です。最初にイエス様の方が女に声をかけ関係が始まった、ということが大事なのです。

これは、わたし達と神様との関係の初めを象徴しているということです。神様と人との関係は、いつも神様の方から始まる、イエス様の方から始まる、主導権はあくまでも神様の方、イエス様の方だということです。

つまり信仰とは、信じたいという心を神が私に残してくれない限りどうしようもない、ということです。神が、信じたいという気持ちを与えてくれることによって、初めて信仰が始まるということです。その意味で、信仰とは人間側の努力の結果ではありません。そういう心を起こしてくれた神の恵み、いつくしみのわざとしか言いようがないのです。

ところで、皆さん、神様は人間の心に「ひび」を与えて下さいました。根源的なひび、根源的な空洞、すなわち、人間が神様を求めるように、わざわざ「ひび」をお与えになったのです。

ですから、人間は霊的に精神的に心に飢え渇きを感じます。寂しさも感じる時があります。根源的な孤独を何かで埋めようとします。多くの人は、しばしば世の中の快楽でそれを埋めようとします。でも、それは真の解決ではありません。偽の解決策です。だからまた渇くのです。イエス様を信じ、イエス様からまことの霊的な水を戴き、初めてわたし達は癒されるのです。渇きが満たされるのです。

あのサマリアの女、井戸端の女は、イエス様の最初の呼びかけから始まり、イエス様との会話を通して信仰が与えられ、霊的に導かれ、回心が呼び起され、イエス様をまことの救い主として信じるようになります。そして、心から「イエス様は主なり」と、大胆に街々に言って宣言する女に直ちに変えられていきます。

イエス様は仰いました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」。この世のものは、心の飢え渇きを真に満たすものではない、癒すものでもない。「しかし、わたしが与える水(信仰)を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4・14)

そう、まことの命の水を味わった者はもう渇くことはない。同時にその時から、その人は、この世のありきたりの光は、もはや光ではない人に変えられていくのです。

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